LOGINそしてタイミングのよいことに今日さっそく体育の時間がある。
急遽瑞穂先生が用意してくれていた教室を使用してひとりぼっちで着替えをすることになった。
3階の隅の普段物置になっている使われていない空き教室。
着替えが終わるとなぜかクラスメートの男子が迎えに来てくれていた。2階にある2年生の教室を使って着替えているクラスメートが本来ここにいるはずはないのだけど。
さすがに鈍いわたしでもここまで露骨に周囲をうろつかれるとなんとなく真意を察してしまう。
たかだか体操服だっていうのに男っていう生き物はまったく。……まさか覗こうとしてないよね……?いくらわたしの容姿がこんなんでもさすがにそこまで血迷わないでほしい。
気を確かに持ってくれよ、男子生徒諸君。
今日の授業内容は体育館でバレーボールらしい。
野球やバスケはアメリカでもやっていたけど、バレーボールはアメリカの授業ではやらなかったので人生初体験。
ルールも良く分かってないけど相手がサーブしてきたボールを3タッチ以内に相手コートへ打ち返さないといけないということだけは知っている。
「わたしバレーボールやるのはじめて!上手くできるかわかんないけど楽しみだなぁ」
わたしがそう言うとバレー部の田村君がはりきって基礎から教えてくれた。サーブのやり方からレシーブ、トス、アタックまで基本的なことをコーチしてくれたので後は授業の中で覚えていけるだろう。
やけに熱心で文字通り手取り足取り教えてくれた。
のはいいんだけど、その後他の男子から殴る蹴るの暴行を受けていたのは大丈夫なのかな?本人はそれでも満足げな顔をしてるから平気か。
まずは基礎的な練習を少しやった後、いくつかのチームに分かれて対抗戦をやることになった。
わたしが初心者だからという理由で田村君がわたしと同じチームに入ってくれることになったけど、また他の生徒から蹴られてる。いじめじゃないよね?
いよいよわたしたちのチームが試合をする番に。最初は勝手がわからないので他の人たちのプレーを見て学んでいたんだけど、すぐにわたしがサーブをする番が回ってきてしまった。サーブをするのも順番なんだね。
位置についてボールを上に放り投げる。
力加減を間違えて高く上げすぎてしまったので落ちてくるまで時間がかかってしまう。
待つのめんどくさいな。
そういえばサーブは体のバネを使って打ち込むと威力が出るって田村君が言っていたな。どうせなら全身のバネを使った方がいいやと、思い切ってジャンプ。
体全体を大きく反らせて、落ちてくるボールに合わせて水面を叩くエビをイメージしながら体を弾けさせ、思いっきり相手コートに向けてたたきつけた。
思ったより威力が出て、相手チームの誰も反応ができずサービスエースって言うやつで得点ゲット。やった!
わたし史上初得点!チームに貢献することもできたし、得点したことを他のチームメイトももっと喜んでくれるだろうと思っていたらなんだかみんな相手チームの人も含めてぽかんとしている。
田村君が一番驚いた顔をしていて「ジャンプサーブ……しかもあの威力……」って言いながら呆然。あれ、ちょっとやりすぎちゃったかなぁ……。
同じチームの澤北君が呆れ顔で近づいてきて「本当にバレーやったことないの?」って聞いてきたので正真正銘今日が初めてって答えた。
「マジかよ。運動神経には俺も自信あるけど初プレイであんな強烈なジャンプサーブとか無理だわ」と苦笑しているので、どうも少し張り切りすぎたみたい。
自分の運動神経が規格外なのは自覚してるからあまり目立ちすぎないようにしようと思っていたんだけど、どうもそのへんの加減が難しい。
「アハハ、わたしも運動神経には自信あるし、武道のおかげで動体視力がけっこういいからそれでうまくいったんじゃないかな」って笑って誤魔化したけど、周囲に目を向けると体育館の隣半分で授業していた3年生の女子の方々もこっちを見て大騒ぎしてた。
あ、あか姉もいたんだ。なんか無表情でこっちをジッと見てるから手を振っておいた。あれはどんな感情なんだろう。さすがのわたしもわかんない。
その後も試合は続き、運動神経についてはどうせすぐバレるだろうからと全力でバレーを楽しむことにした。
相手チームからのボールをバンバン拾って守備にも貢献、攻撃時にはジャンプ力を活かして高い位置からの強烈なアタックで拾える人はほぼいない。3試合して攻守ともに大活躍で全戦全勝へと導きMVPはわたしという結果に。
隣の3年生女子は熱烈な声援を送ってくれていたけど、先輩方、授業は?
「さすが」ゆきの運動神経は知っていたけど初めてやるスポーツでも遺憾なく発揮されるものなんだな。
授業が始まる前から同じ体育館内にゆきを発見したからずっと目で追っていたけど、あのジャンプサーブには目だけじゃなく心も奪われた。
あの抜群の容姿だけでも十分だが、それに加えてダンスで鍛えたバネをいかんなく発揮してのしなやかな動きはまるですばやく振り下ろされた鞭のように美しく、両方合わさればまさに芸術的。
それはひいき目なんかじゃなく文句なしにキレイで、見惚れる以外に選択肢がない。
やっぱりうちの弟は何をやらせてもそつがなくかっこいい。しかもその後わたしの方を見て手を振ってくれたので心臓が止まるかと思った。
キュン死寸前で悶えていると友人が「茜ー!弟のゆきちゃん、バレーめちゃくちゃ上手くない?ずっとやってたの?」と聞いてきたので一度もやったことのない初心者だと答えたら案の定驚愕の表情をしていた。
うちの弟は何をとっても普通じゃないのだよ。
ゆきのすごさはこれから体育の時間が重なれば自然と周知されていくだろうけど、今日初めて見た人が抱くであろう信じられないという気持ちはよくわかる。
普通どんなスポーツでも初心者ってのはもっとたどたどしくて、時には無様な姿を見せたりもするもんだろう。
それを超中学級エースかのような活躍をみせるのだからはっきり言って化け物だ。
もしなんらかのスポーツに打ち込めば、きっととてつもなく優秀な成績を残すだろうことは間違いないと思うが、本人は遊びとしてやるスポーツには興味があっても本気で打ち込んでやるのは歌とダンスしかない。
少しもったいないなと思う面もあるがダンスをしている時の生き生きとした姿と、なによりあの歌声を聴けば今の道が最善なんだと納得させられてしまう。
それくらいゆきの歌声は圧倒的。
本当に天はゆきに対して何物ほど与えたんだろうというほどにたくさんの才能に恵まれているがやっぱり歌い踊っている時のゆきが一番輝いている。
本当の魅力はそんな外見的なものだけではないんだけど。
しかしそれが一番わかりやすい魅力でもあるので、周りの女子たちもゆきの活躍を見ては黄色い声援を上げて騒いでいる。
彼女たちはただ単に運動神経の良さに賞賛をおくっているのか、男性としてかっこいい姿のゆきを見て騒いでいるのかどちらなのだろうと考えるとモヤモヤしてきた。
ゆきのことは誰にも渡さないよ。
そんなことばかり考えていたので授業で何をやっているのかなど頭からすっぽり抜け落ちて授業中ずっとゆきのことを凝視してしまっていた。
転校して最初の体育はマラソンだったので特に問題はなかったけど、2回目のバレーボールの授業で常人離れした運動神経がバレてしまった結果、お昼休みにスポーツをしようと誘われることが多くなり、結果として以前より男子生徒との距離が縮まった。
以前より気さくに話しかけてくるようになり、普通の休み時間に男同士で会話することも比較的多くなった。
それでも女の子の行動力の方がすごくて気が付けば女子の輪の中に引きずり込まれていることの方が多い。
バレーの授業をきっかけに変わったことと言えばもうひとつあって、わたしのクラスの体育の授業にギャラリーが現れるようになったことだ。
もちろん授業中なので先生に見つかれば即座に追い払われてしまうのだが、隠れてみていたり、たまたま同じ時間体育に当たったクラスの人たちがわたしの活躍を見学するようになってしまい、そのクラスの授業が円滑に進まなくなってしまったのだ。
その現象がエスカレートしていっているのも、これまたわたしのせい。もともと運動が好きでどんな内容の授業でもついはりきってしまうからだ。
サッカーでは派手なジャンピングボレーシュートで得点したり、マット運動ではバク転バク宙側宙なんかお手の物で体操選手も顔負け。だってダンスでもやるんだもん。
野球ではこれまた人並外れた動体視力で相手チームになった生徒から絶望の声が漏れるほど全打席ヒットかホームラン、守備では武道で鍛えた反射神経を活かしてファインプレーの連続。
体育の時間があるたびにそんな花形選手みたいな活躍ばかりしていれば注目もされるというもので、諸悪の根源はわたしで間違いない。
わたしは部活に入っていないので、そうやってスポーツをしている場面を見れるのは体育の時間しかないから見たい人は隠れて見るしかないので、わたしにはどうしようもないこととはいえやはり授業妨害をしているようで罪悪感がある。
それを木野村君や田村君に相談したところ、たまに部活の助っ人として練習に参加すれば授業中にリスクを冒す生徒も減るんじゃないかという話になった。
見つかったら大目玉だもんね。
それでいくつかの運動部のキャプテンへ会いに行って交渉したところ、どこも快くどころか積極的に受け入れてくれた。
私生活が忙しくて正式に入部できないことと晩御飯を作る必要があるから1時間程度しか参加できないことを詫びてもみなさん嫌な顔ひとつすることなく理解を示してくれて、逆に無理をせず私生活の方を大切にしてくださいと気を遣ってくれるほど。
その優しさには思わず感激してしまった。
ともあれ、わたしがスポーツで活躍する場面を放課後にどこかで見られるという話は各部活を通して広まり、授業中にさぼる生徒はほとんどいなくなった。
ただ同じ体育館やグラウンドで別クラスとかぶったとき、こちらばかり見てるのは防ぎようがなかったけれど。
一度「こっちばっかり見てないでちゃんと授業に集中しないとだめですよー!」って注意したら「キャーこっち見てくれたー!」と逆効果になってしまったのでわたしは何もしない方がいいという結論になった。
あと瑞穂先生の情報によると学年をまたいだ合同体育を実施してほしいという請願が生徒会や職員室に頻繁に届くようになったらしい。
表向きには学年間の交流になるという名目を掲げていたらしいけど、2-4ばかりわたしを独占しているのはズルいという本音が見え隠れしていたと苦笑していた。
こうして毎日ではないけれど部活に助っ人で行くようになって夕方の時間が前より減ってしまったけど、部活をしてる分ジョギングをしなくてもよくなったのでその分夜の時間を確保できることになった。
Vtuber活動は夜にやるのでその時間が増えたのは純粋にありがたい。
部活の方も好評でどこの部に行っても重宝されるようになり、時には取り合いに発展しそうなこともあった。わたしが原因で揉め事になるのは真っ平だったので毎週金曜日に翌週のスケジュールを決めてしまうことにした。
すると副産物というか、学校の生徒間で使われているネット掲示板にそのスケジュールが公表され、ギャラリーの人たちが以前より増えることになってしまった。
またその結果これはいい影響だと思うんだけど、ギャラリーがいることで部員が異性にいいところを見せようと以前より熱心に練習をするようになり、結果的に公式戦の成績が上がったということだろう。
嬉しい誤算ってやつだけど人ってほんと単純だな。そういうわたしだって男だし、異性にいいかっこしたいと思う気持ちは分かるけど露骨すぎやしませんか、みなさん。
そして夏休みも半分以上が過ぎた盆明けの頃、わたしの体にもうひとつの異変が起きた。 なんと声がでなくなってしまったのだ。 完全に出ないというわけではない。 でも風邪でもひいたかのようなかすれ声。ただ他には症状が何もなく、熱があるわけでも咳が出るわけでもない。 ただ単にのどがいがらっぽく声が出にくくて、無理に出そうとするとかすれてしまうというだけの症状。 不調はどこにもないからのど飴でも舐めていればそのうちよくなるだろうと高をくくっていたら症状が数日続いてしまい、動画投稿ができないという事態になってしまったのでさすがに病院へ行くことにした。「あー声変わりですね」「へ?」「だから声変わり。中学2年生だよね?たいてい身長が急激に伸びた後に声変わりすることが多いんだけどね。その様子からするともう身長の方は頭打ちかもしれないね」 わたしにとって衝撃的なことを告げ、人の気も知らず朗らかに笑う医師。 このことは2つの意味でショックだった。 まず、声変わりして今までのような声が出なくなったらどうしようというショック。 ただこれに関してはいずれ起きうることと想定していたので、変わってしまった声質に合わせた曲を作ればいいだけなので対処のしようはある。 今までの声が好評だったので声変わりをして人気が落ちてしまったらどうしようかという不安はあるけどこればっかりはどうしようもない。 男性の声質に合わせたボイトレを勉強しなおさないとな……。 声のことはそれでいいとして、それ以上にショックだったのが身長の件だ。 これ以上伸びない!?夏休み前の身体測定で2cm伸びて155cmとなりまだまだ可能性はあると喜んでいたのに! 160にも届いていない現状でまさかの最後通告をされてしまうなんて……。 ショックから立ち直れないまま家に帰ると、みんな心配してくれていたようで全員揃ってお出迎えしてくれた。そして沈んだ表情のわたしを見てみんな大
チャンネル登録者100万人突破という目標を達成してとりあえずVtuber活動にも一区切りがつき、時間的にも余裕ができていたのを目ざとく察知したひより。 お兄ちゃん大好きを公言するひよりがそのチャンスを逃すはずもなく、どこかに遊びに行こうとせがまれた。 スケジュールにも空きがあるので遊びに行くこと自体はいいんだけど、問題は提案されたその行先。 せっかく夏なんだから海に行きたいと声を揃えて提案されたものの断固拒否。 あまりにも強く拒否をしたものだから、理由をしつこく問いただされてしまう。 恥ずかしいから言いたくなかったんだけど、さすがに誘いを拒否したうえに黙秘と言うわけにもいかず渋々理由を告げると全員に大爆笑されてしまった。 笑い事じゃなく本気で恥ずかしいんだからね! その理由はさらに胸が大きくなってしまったというわたしにとっての衝撃的事実。前に買ってもらったブラがかなりきつくなっていたのだ。 そんなことなかなか言い出せず黙って苦しい思いに耐えていたんだけど、姉妹たちに自白したらさっそく新しいものに買い替えるためにもサイズを測りに行こうという話に。 案の定Cカップにサイズアップ。まぁわかってはいたんだけど……。 そして当然のごとく選ばれるフリフリの付いた下着たち。あぁまた女体化が進行してしまう……。 さらに成長してしまった胸をひっさげて人の多く集まる海やプールにおもむいて衆目にさらすことに対しどうしても恥ずかしさを拭うことができないので、今年はわたし抜きで行ってくれるようお願いした。 でもわたしがいないとつまんないという理由で結局今年は誰も泳ぎに行かなかった。4人で行ってくればいいのにと思ったけど、わたしがいないところでナンパ男にちょっかい出されるのも不快だから結果的にはよかったかな。 その代わり少しでも涼しいところへ遊びに行こうということで水族館巡りをすることに。 近場の水族館に行った後、ジンベエザメを見たいということで関西まで遠征したりもした。 楽しかったけどよく考え
忘れていた。というより忘れたままにして何事もないように過ごしていたかった。 だけどそういうわけにもいかず、とうとうその日を迎えることになってしまう。 プール開き。 来週からいよいよプール授業が始まる。どこの学校にもある行事だろう。 楽しみにしていたという生徒も多い。 無料でプールに入って涼めるのだから日本の暑い夏を過ごすのにこれほどありがたい授業は他にないだろうとも思う。 だけどそれはあくまで一般生徒にとってのお話。いや、わたしも一般生徒だけれども。 ただわたしには決して忘れてはいけない特殊な事情がある。 この無駄に膨らんだ胸だ。 どうすんだよ、水着。 もちろん男子と同じ下だけというわけにはいかない。 かといって女子用のスクール水着だと股間が大変なことになってしまう。 いっそのことずっと見学ということにしてもらおうかと思ったが、ズルをしているみたいで心情的にイヤだし、クソ暑い中水遊びに興じるクラスメートをただ眺めているだけというのもなかなかに拷問チックな絵面。 学校には校則と言うものがあるので、より姉が主張するように好きな水着を一人だけ着させてもらうというわけにもいかないだろう。 というわけで担任の瑞穂先生に相談しているのだけど、なかなか妙案と言うのは浮かばない。 職員室のパソコンで水着を検索しているのだけど出てくるのはより姉が見たら喜びそうなかわいいものばかり。『学校 水着』で検索すれば出てくるのはスクール水着のみ。これもう詰んでない? ちょうどその時、2年生の体育を担当している船越清美先生が授業を終えて帰ってきた。「瑞穂先生に広沢さん、2人揃ってパソコンにかじりついてどうしたの?」「広沢さんの水着を探しているのよ。ほらこの子、男の子なのに胸が出てきちゃったでしょ?それで学校指定の水着では男女どちらのものを着ても問題があって……」 さすがに職員室の中なのでバストや股間と言ったセンシティブな単語は避けて話してくれてはいるけど、自分の
翌日、週初めの学校では彩坂きらり×YUKIコラボの話題で持ちきりだった。「すごくよかったよね!」「歌も当然だけど2人の掛け合いも息が合っていて面白かった」「ほんとあの2人の歌唱力は抜群だよね」「プロの中でもあの2人より上手い人なんてなかなかいないんじゃないか」聞こえてくるのは好評の声ばかり。少し面映ゆい。「あの2人と同じくらい歌が上手いプロって言えば岸川琴音くらいじゃない?」 その名前を聞いて思わず体がピクリと反応してしまった。幸い誰にも気づかれていなかったけど、懐かしい名前を聞いたもんだ。 岸川琴音。ピーノちゃんの名前が売れすぎて陰に隠れてしまっていたけど、2人で踊るふわふわダンスの相方だった人。 わたしが引退した後は子役から歌手に転向し、今では押しも押されもせぬトップアイドルの歌姫。歌だけじゃなくダンスのセンスもあるのだけど、「ダンスはピーノちゃんとしか踊りません」と封印してしまい今はその抜群の歌唱力のみで歌姫として芸能界に君臨している。「怒ってるんだろうな」 もともと引っ込み思案で子役たちの中でも目立たない存在だった琴音ちゃん。ピーノちゃんの番組が始まるときに「この人と歌いたい」と言って歌の世界に引きずり込んだのは他ならぬわたしだ。 その張本人が突然理由も告げずにいなくなってしまったのだから残された琴音ちゃんには恨まれて当然だろう。 わたしが素顔の露出を躊躇してしまうもうひとつの理由であったりもする。 でも逃げ回っていても仕方ないし、不義理をしたままなのもイヤだ。来年素顔を出したときにはこちらから連絡を取って素直に謝ろう。 連絡先知らんけど。 今はまだVtuberとして素顔を隠しているので、子役のこと含め正体を明かすわけにはいかないけど、これも素顔をさらすときに覚悟しておかないといけない課題のひとつか。「ゆきも岸川琴音は知ってるでしょ?」 ふいに穂香が話題を振ってきた。今まさに考えていたことを突然降られて少し動揺してしまったけど、気持ちを落ち着けて何食わぬ顔で返答する。「もちろん、日本の歌姫って呼ばれてる
午前中は別の用事で潰れてしまったけど、午後からいよいよ家族そろっての東京観光だ。 まず、東京に来たらここでしょうとばかりに向かうはスカイツリー。新しくできた東京のランドマークと言うことでやっぱり人が多い。人ごみをかき分けるようにして展望台の中でも一番見晴らしがいい場所までたどりついた。「おぉ、たけー」 ……だよね、それ以外に感想なんて浮かばないし。 夜景とかだったらキレイーとかあったかも知れないけど、残念なことに時間は昼でしかも天候もくもりだったのでそんなに遠くの景色まで見えない。富士山も見えない。 それにしても感想が「高い」だけというのも少し感性が低いのかなって不安になる。歌い手には感性が命なのに!「おーたっけーな」「うん、高い」「ほかに感想は出てこないんですか」 どうやらみんな似たようなもんらしい。ちょっと安心。 いつも元気なひよりはというと、実は高所恐怖症で展望台の中心部分から一歩も動かず決して端によろうとしない。「こっちおいでよ」と言って誘うと野生動物のように威嚇してくるくらいだから余程怖いんだろう。エレベーターで上がってくるときも目をつぶって何やらブツブツ念仏みたいなのを唱えてたもんな。 でもこうやって何も考えずに景色を眺めるのもたまにはいいかもしれない。 普段は朝からご飯を作ってそれから学校に行き、部活が終わって家に帰るとまた晩御飯を作って食事が終わったら少しの時間家族と会話してそのままスタジオにこもって曲の収録やらダンスの練習をして収録、動画投稿。終わったら後はお風呂に入って宿題をやって眠るだけ。 休日も3食作る以外はスタジオにこもりきりと言っていい状態。 そんな有様だからこうやってゆっくり何もしない時間を楽しむというのも久しぶりの事だ。 これはこれでリフレッシュになるだろうから、これからは意識して何もしない時間と言うのを作っていった方がいいかもしれない。 人間何かに忙殺されてしまうと視野も狭くなってしまうしね。そういえば最近は星空もゆっくり眺めることができていないな。 スカイツリーから出てくるとひよりも復活して、これからが本番だと張り切っているので何をするのかと思いきやショッピング。「ここからはゆきちゃんが主役だよ~」 ひよりの言う通り家族がそろい、そこにわたしもいるということはいつもやることが決まっている
配信が21時開始のため終わった時点ではもうすっかり夜更け。手早く後片付けをしてホテルに戻ろうと準備していたらきらりさんから声をかけられた。「タクシーを手配したから一緒にどうぞ」 同じホテルに帰るのに断るのはあまりに他人行儀すぎると思い、お言葉に甘えて同乗させてもらうことにした。 帰りの車中、今日の感想など語り合いながら楽しく過ごしていたのに、ホテルが近づくにつれ口数が少なくなっていくきらりさん。「さすがにもう眠くなってきましたか?」 疲れたのかなと思ってそう尋ねると、微笑みながら首を横に振る。でもその笑顔は曇っていた。「今日はね、Vtuberをやりだしてから初めて!ってくらい本当に楽しかったの。それがもう終わっちゃったんだと思うとなんだか寂しくなってきちゃって」 そこまで楽しんでくれていたなんて!嬉しさに心が躍る。 同時にきらりさんの表情から、そんな楽しい時間が終わってしまったという寂寥感が感染してわたしの胸にも寂しさが湧き上がる。 でも、わたしときらりさんにはきっとこういう湿っぽい空気と言うのは似合わない。リスナーさんたちならそう思うはず。「祭りの後というのはどうしても寂しくなってしまいますよね。でも今日で終わりってわけじゃないですよ!今日もとっても好評だったしまたコラボしましょうよ。なんならリスナーさんから【またかよ】って言われるまで何度もやったっていいじゃないですか!」 そう言って笑いかけると、目にいっぱい涙を浮かべながら服の裾をつかんできた。「本当!?また一緒にやってくれる?これで終わりじゃない?またわたしと会ってくれる?」 う……そんな期待に満ちた目ですがりつかれると……。かわいい……。6歳年上なのにまるで少女のような顔で迫られてドキドキしてしまう。「も、もちろんですよ!またきらりさんと一緒に歌いたいし、今日みたいに楽しい時間を過ごせるのはこちらとしても大歓迎ですよ」 少しでも安心してもらえるようとびっきりの笑顔を向けると、ようやくきらりさんの顔に笑顔が戻ってきた。 車中は暗いからよく見えないけど心なしか顔が赤いような?「歌だけかぁ……わたしはそんなの関係なしにいつでもゆきさんに会いたいのに……」 ごにょごにょと聞こえないように言ったつもりなのだろうけど、タクシー内は思いのほか静かでしっかりと聞こえてしまった。 え